Diary
多くのシンクロと気づきの3日間 2004. 3.30 TUE
3日間に渡るワークショップを終えた。受ける前に思っていた予感は面白いくらい適中した。そして、やはり必要があって受けたのだと確信した。
5年前に逃げ出した続きが始まることを知っていた。そして、その時一緒に受けた仲間が2人も参加していた。まずこの偶然に感謝。
その頃のわたしを思い出させるような人もいた。いろいろな感情がやってきた。凄いくらいのシンクロニシティに満ちていた。これ以上はありえないくらいの舞台設定。
ワドゥダの第一印象は意外だった。写真とイメージが違っていたので戸惑ったのも確か。でも、この印象が時間とともに様々に変化していく。それがとても面白かった。
単に愛だけではない奥深いティーチャーであり、わたしにとってはいろいろな意味で今後も思い出すひとりだと思う。まだ、受け取ったものを本当に自分のものにするにはしばらく時間がかかりそう。
いくつかのワークはあまり乗り気でなかった(笑) こんなことをして何になるんだろう?という思いもあった。でも、その気持ちとともにいることにした。
意味のないことはないだろうし、でも、それを頭で考えることはやめた。考えるのは日常に戻ってからいつでもできるのだし、今、ここですることに集中していたかった。
答えはいらない・・・ある種の『無』を試してみた。
初日のワークで「受け取ることより与える方が気持ちがいい」ことに気付いた。受け取ることが少し難しい。
正確には、自分が与えたことによって受け取るエネルギーは充分受け取れる。でも、自分がなにもしないで、ただ受け取ることは難しかった。無条件の愛を受け入れるのに抵抗があるのかな?
2日目になって思いがけない言葉を聞いた。受け取ることについての例え話の中で、誰かに「あなたは美しい」と言われても素直に受け取れないのは、「美しいままでいないといけないのか?」というプレッシャーと自分の中に、そうではないと思っている自分がいてジャッジしているから苦しむと。
それを聞いて5年前の体験を思い出していた。
「あなたの魂は美しい」と言われ、すごく嬉しかった反面、抵抗もあった。「そんな訳ない、自分はそんなにいい人間ではない。誉められるに値しない」という気持ち(決して謙遜ではなく、もっとドロドロした恐怖もあった)と、「本当の自分を知られてしまった。
もう、今のままではいられない。光の人生を受け入れ相応しい生き方をしなくてはいけない」という思いがあった。
自由とともにある責任のように、いいことばかりではなく重荷も増えるような複雑な気持ち。
そしてわたしは逃げ出した。このまま、オーラソーマを続けていたら、多くの感覚が開き力を手にすることになる。でも、力を手にしたら悪いことに使うかもしれない・・・
自分を信じられなかった。恐かった。正しく使えるようになれるのか自信がなかった。だから逃げた。
そのことに気付き涙が自然と溢れてきた。「その感情を押さえないで、涙とともにいるように」とワドゥダに言われ安心してそのままでいた。
そのすぐ後に試したワークで、わたしはパートナーのオーラの輝きを見ることができたのです!
身体の輪郭に沿って白い光のようなものが見えてきて(たぶんあれが電磁場なのかもしれない)とても美しかった。そのパートナーの女性は、初日から気になっていた方でしたので、思いきってお願いしたのですが大成功でした。
目と目を見つめ合う、やさしく受動的にハートから見ていく、多次元にチューニングを相手のハートに合わせていく・・・こんな風に見えていくとは思わなかった。その後も他の人と組んだ時もこっそり試していた。
すると、やはり見ることができた。色はよくはわからなかった。でも、時々相手が話すのに合わせて色が一瞬現れたり広がったりするのも面白かった。
もちろん、許可されない限り相手にそのことを伝えることはしないつもり。頼まれて見ようとも思わない。でも、光があること、オーラが存在することを、わたしは見ることを自分に許したのだと思う。
それに、この3日間はチャクラとサトルアナトミー(微細解剖学)のコースなのでそれに気付くことになった。わたしはそれを求めていたのかもしれない。
こうして5年前の続きの時点に戻ることができたのだと思う。もちろん、この5年間の歩みは無駄ではないことはわかっている。その過程を経なければ、今のわたしはいないのだし、こうして素直に受け取ることができたのも、少しは自分のことを認められたのだと思うから。
そして、今回のチャクラの理解で深まったのは、3番目のチャクラである太陽神経叢(みぞおち)についての新たな気付きがあった。チャクラ瞑想をしていてもその領域にエネルギーが溜まっていることに気がついた。
ここはパワーの領域でもあり、「見られたい自分」「見られたくない自分(隠している部分)」の策略がテーマだと知った。セラピストやティーチャーは見ていく必要があり、判断せずありのままで見ることが大切。
だから嫌だったんだと思った。自分自身に直面していく、開いていく勇気。たとえ痛みを伴おうと、ただあることを知り受け入れていく。ジャッジする、判断することがあまりにも多すぎる・・・、でも、それすらもありのままに・・・
正直な気持ちとしては、まだよくわからない部分がたくさんある。腑におちるように理解するには時間も必要だと思う。でも、なんとなく明るい希望と「この流れで大丈夫」という安心感は心強い(笑)
根拠は特にないんだけど時間とともに人と出会い、本や夢や直感からのメッセージに従っていけば大丈夫と思える。どんなものも、自分が気付くことが一番凄いと思うから、安易にすぐに誰かに解説を求めなくてもいいと思った。
だから、やっぱりわたしもセラピーの方向性は見直す必要があるのかもしれない。具体的にはどうとは今はわからないけど・・・
今のわたしは、なぜか今まで一番関心のなかった「音」に惹かれている。とても不思議だけど敏感に音に反応しているのです(笑)
美しい音色を今度は求めていくのかもしれない・・・ホント面白いです♪