Diary
言葉を超えた感覚なのかな 2004. 3.17 WED
今年の始めごろからお知らせは来ていた「ワドゥダ」の来日。でもその頃は特別どうこうということはなかったの。批判うんぬんの嵐が過ぎ、個人的記録を進めることに決め、今まで出会った精神世界の先駆者や師との出会いなどをいろいろ考えていた。
今の自分がいるのは多くの人からの影響や出来事があったからに他ならない。そして考えながら2つのパターンがあることに気がついた。理論的教師と精神的教師。両方必要なのは確かなのだけど結構興味深かった。
日本人の先生は、わたしにとっては理論的教師となっていることが多く、外国人の先生は精神的教師が多いのです。その違いは言語による。
わたしは英語が話せないので外国人の先生と直接会話することはできない。授業も通訳を介してなので本質の部分を正しく理解できているかはわからない。
英語が話せる人が、先生とフレンドリーに会話するのを、うらやましく思うくせに、いざ話しかけられると気まずい思いをする。自分の伝えたい思いを表現できないもどかしさ、自分の努力のなさに嫌気がし、かなりブルーになる・・・そのくり返し。
だけど外国人の先生の方が好きだったりする(笑)
それはなぜか? 言葉がわからない分、表情や動き、話す言葉の声(音)を逃すまいと必死で集中できるからかもしれない。「知りたい」という気持ちが強くなる。
なにを伝えてくれるのか、なにが得られるのか。感覚は鋭くなり、エネルギーを感じることさえできるような感じ。言葉を超えていく。
だから日本人の先生からは、しっかりと理論を学んでいるのだと思う。その代わり人間的には距離を置いてしまっている。「先生」でいて欲しいのだと思う。理性と感情を分けていた自分に気がついた。
それは音楽に関しても同じなのです。洋楽やクラッシックは好んで聞くことができる。BGMで流しても気にならない。リラックスできる。
でも、日本語の歌詞があると気になって仕方がない。BGMではありえない。つられて口ずさんでも、ちょっとでも間違えると嫌な気持ちになる。誰かに聞かれたらと思うと恥ずかしくてできない(笑) だから聞く時はじっくりと歌詞カードとともに聞き入るのが好きです。
だけど洋楽は歌詞や内容がさっぱりわからなくても好きなものは好き。つまり直感や感覚で判断している。それと同じなのかもしれない。
以前ある外国人のヒーラーに言われた言葉。「あなたの中には、たくさんの英語が詰まっているのに、なんで表現しないのかなあ?」って。すごく不思議そうに無邪気に言われた。でも、すごく嫌だった。そんなこと言われたって・・・と余計落ち込んだ(笑)
今思い出した。オーラソーマのコース中に見た夢。飛行場のような場所で入国審査なのかな。いろいろな国の人がいる。会議室のような面接会場の場面。そこを通過するために英語?で自己紹介をして合格しないといけないらしい。
わたしの番がやってきた。でも緊張して失敗する。
ジャッジする係の人達は全員NO!を告げる。いつものわたしなら、恥ずかしい思いとともに逃げ出していた。でも、ここは逃げたくなかった。ダメだと言われても、無理だとわかっても通してもらわないといけない!と強い思いで訴えた。とにかく恥も外聞もなくお願いした。
「わたしには伝えたいモノがある。ここでしなくてはいけないことがある。言葉はわからないけどできる方法を考えるから。努力するから!」と力説していました。夢の中なのに現実のわたしも泣きながらつぶやきながら目を覚ましました。自分でもびっくりした(笑)
・・・そうか、そういうことだったのかも。やっぱりそろそろ本当の流れに進んでいくような気がしてきた。
この夢の続き。必死になって勇気を振り絞って、不可能を可能にしようとする程の熱い思いがあれば、きっとなんでも叶えられると思う。これは信念を試すための最後の試練の場面だったのかもしれない。