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記憶は曖昧なもの             2008. 4.22 TUE

今日は朝から同じニュースがずっと流れている。山口県の母子殺人事件の判決・・・結果は誰もが知っていると思う。たぶん、多くの人が望んだであろう死刑が言い渡されました。

多くの人が望んだ・・・と言うと語弊があるかもしれないけどメディアは明らかに偏っているし、そう受け取れるだけの表現をしていたと思う。

唯一昨日の夜中に加害者側擁護の視点の番組を偶然みつけたけどね。

正直重い事件だしコメントは差し控えた方がいいかな?という気もするけど、やはり避けて通るのもできないような・・・

実は偶然見かけた番組を見なかったら違う考えだったかもしれないと思う。一方的な視点の報道しか目にしてなかったから、ずっと思い込んでいた部分が解けた感じなのかもしれない。

いや、むしろ混乱したのかな(笑)

やはり私達は、物事を見たいようにしか見ないのかもしれない。信じたいように信じるし思い込みたいように思い込む。そこに真実はあるのか?

でも、果たして真実とはなんぞや?という命題にもなるよね(笑)

過去世退行の前にもお話することだけど「真実は片側からしか見れない」という問題があります。

歴史の出来事にしても、どちら側を主人公として描くかによって善悪の判断、敵味方も変わってきます。

何を基準として決めるのかによって全く変わってしまう。見方によってどうとでも解釈できる。ある時は善、でもある時は悪・・・

もちろん、今回の事件は起きてしまった事実は誰の目にも明らかだしシンプルです。でも、情状酌量の余地があって軽減できるのかできないのかが争点なのだと思う。

9年前の事件・・・記憶が曖昧なのは仕方がないと思う。

この9年間の間に様々なことを考えただろうし色々なアドバイス、入れ知恵、内省する中での葛藤・・・記憶が歪められ妄想も混ざってきたりしているはず。

それに、なにより大人になり考え方も変わってきている。

自分に当てはめても9年前の感情や感覚を正確に思い出すことは不可能だよね。その当事からは明らかに感じ方や考え方、受け止め方も変わってきていると思うし。

それとも塀の中にずっといると当事のまま成長しないということも有り得るのかもしれないけど・・・確かに刺激は極力得られないだろうし情報も限られています。接する人間もごくわずか・・・

だけど9年間も塀の中にいて、万が一外に出ることがあったとしても生活していけるのだろうか?という疑問もある。

浦島太郎みたいなものだろうし・・・もちろん一生外には出れないのかもしれないけど、それならそれで色々な疑問も浮かんでくる。

犯罪はいけないことだし殺人なんてもっての外。自殺もいけないことだけど殺人を犯すよりはマシだと思えるくらいの大罪・・・多くの人は思うよね。

もちろん過失の場合は情状酌量の余地はあると思うけど、それだって罪の意識は一生続くはずです。

たぶん、普通の人間だったら罪を犯して平然と生活できないと思う。自分は知っているワケだし過ちの記憶が消えることはない。むしろ死刑になった方が楽とも言える。

でも、遺族の感情も消えません。存在が消えても記憶は消せない。

憎む相手がいなくなってスッキリできたらどんなに楽だろう・・・「死刑にした十字架を遺族も背負う」と会見で話された言葉が忘れられません。

実は今までは単に見てみぬ振りをしてきたと思う。面倒なこと関係ないことに関わって気持ちが乱されたり悪感情を抱いたりしたくなかった。

司法の側の人に任せておけば大丈夫と思っていました。まずは自分の人生、次に縁のある人たちだよね(笑)

でも、もうすぐ陪審員制度が始まるので、誰にでも裁判について関わる可能性があります。だから正直気は重いです。

もしかしたら選ばれてしまうかもしれない・・・と時々考えます。

誰にでも可能性はあるから今のうちからシュミレーションしておいた方がいいと思うけど今回みたいなパターンになったらどうするだろうか?

一般の女性としての自分の視点とセラピストとしての視点、どちらで判断すればいいのか?

まあ、普通は個人として普通に判断すればいいと思うけど迷うだろうな(笑) 色々な視点で見れるので公平に判断できそうだけど逆に悩みそうで・・・

今回の場合はホントは終身刑があればベストと思いました。ないものを言っても仕方がないけどね(笑)

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